プロフィール
名前 | イビチャ・オシム(Ivica Osim, Ивица Осим) |
生年月日 | 1941年5月6日 |
出身地 | サラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ) |
国籍 | ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア |
身長・体重 | 191cm・90kg |
選手としての経歴
1960年 | サラエボのプロフットボールクラブ「FKジェリェズニチャル・サライェヴォ」入団。 |
ポジション | フォワード。当時を知る人物は華麗でテクニックのある選手だと語っている。愛称「シュトラウス」。 |
1964年 | ユーゴスラビア代表として来日。東京オリンピックで日本代表と戦い2ゴール。 |
1968年 | ユーゴスラビア代表として第3回欧州選手権イタリア大会に出場。 |
準決勝でイングランド代表に勝利するも重傷を負い決勝戦に出場できずイタリア代表に引き分け再試合の末2位に終わる。 | |
1970年 | フランス「RCストラスブール」移籍。その後バスティア等フランスのいくつかのクラブに移籍。 |
1978年 | 再度ストラスブールへ移籍後現役引退。 |
通算85得点。イエローカード無し。
監督としての経歴
1978年 | 古巣のゼレズニチャルでコーチの仕事を始める。 |
1986年 | ユーゴスラビア代表監督に就任。 |
1990年 | FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。 |
このときの代表メンバーには日本でも有名なドラガン・ストイコビッチ、のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチらがいた。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。 | |
この後ユーゴスラビアの国分裂が決定的となる。 | |
1991年 | 翌年のEURO92の予選通過を決めていたが、この年の夏に現スロヴェニアと現クロアチアが連邦から離脱し、両国の選手抜きでユーロに臨むことになった。 |
1992年 | ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴスラビア軍がサラエボに侵攻。イビチャは直前に仕事のためベオグラードに赴いたため、一緒にベオグラードにいた次男と共に戦火を免れる事が出来たが、セルビア人勢力によるサラエボ包囲戦によって、サラエボに残った夫人と長女は以来1994年に至るまで、サラエボを脱出することが出来なくなった。 ユーゴスラビア軍のサラエボ侵攻とユーゴスラビアという国が壊れてしまったことに心を痛めていたが、イビチャはパルチザンがレッドスター・ベオグラードに勝ってユーゴカップを制すると、パルチザンとユーゴスラビア代表の監督をどちらも辞任した。 この後、国連の制裁決議を受けてUEFA、FIFAはユーゴスラビア代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。EURO92で優勝を決めたのはユーゴスラビアに代って出場したデンマーク代表であった。 |
1992年 | ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。 |
1993年 | オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツの指揮を執る。SKシュトゥルム・グラーツに赴いてから1年後の1994年にようやく、夫人と長女との再会を果たす。夫人もオシムに似て頑固で、これ以前にも脱出するチャンスがあったにもかかわらず、正規の脱出ルートではなかった事を理由に「自分だけが逃げるわけにはいかない。」とオシムの助けを断っている。SKシュトゥルム・グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場した。 |
2003年 | ジェフユナイテッド市原監督に就任。 |
2005年 | ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。 |
2006年 | 日本代表監督に就任。 |
2007.11.16 | 脳梗塞の為自宅で倒れ入院 |
2007.12.7 | 日本代表の監督としての契約の解除が決定(容態は予断を許さないものの意識が回復し快方に向かっている。なお、このことは本人に知らされていない。) |
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